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2008年1月27日日曜日

大牟田松屋が消える

包み紙、食堂、屋上遊園地跡… 市民の夢と郷愁染み込む 解体中の大牟田「松屋」に潜入(西日本新聞 九州ねっと)  

’04年に閉店した大牟田のデパート松屋が、今年の秋には完全解体されるそうです。

企業努力が足りなかった事もあるでしょうが、人口が減少し、交通の便がよくなり他地域へ買い物に出かけるようになったのも影響したと思います。

松屋が閉店する前後からこのアーケード街は衰退していったようです。今では市自体が立ち行かなくなってしまい、厳しい市になってます。

大牟田市民に愛着があった松屋が解体後、市も破綻という事がないことを願います。

 大牟田市の銀座通り商店街の一角で65年余にわたり市民に親しまれ、2004年に歴史を閉じた百貨店「松屋」。昨秋から解体が始まり、今夏までには完全に姿を消すという。探偵は、市民が松屋に寄せる特別な思いを探ろうと、特別許可を得て解体中の建物に潜入した。 (大牟田支局・笠島達也)

■「マーク」に感慨

とはいえ、閉店後の松屋しか知らない探偵のために、休日の市職員2人が駆け付けてくれた。ホームページで「松屋の24362日」というコーナーを開設している市建築住宅課主査の辻弘見さん(43)と、文化財に詳しい市民協働推進室長の山田元樹さん(45)だ。

懐中電灯を頼りに、従業員階段を使って店内探索へ出発。学生時代に同店でアルバイトをしたことがある辻さんが先導する。取り壊しが進む低層階は跡形もないが、上の階ほど調度品類も残り、営業していた当時の雰囲気のままだ。

「あったー」。4階の片隅で、「松屋マーク」の入った包み紙や、封入用の丸い紙を見つけた辻さんは「この包み紙にくるまれた物は、市民にとっては特別な品でした」と感慨にふけった。

■1億円超の募金

同店のオープンは1937年。45年の大牟田空襲で同市中心街はほぼ焼失したが、同店は内部は焼けたものの建物は無事だった。終戦で、命からがら帰郷した人々は、焼け野原に立つ松屋に感涙したという。

2002年に同店が経営危機に陥ると、市民から1億3000万円もの募金が寄せられるほど、市民の愛着は深かった。

探偵が既視感を覚えたのは6階の食堂。サンプルケース跡などに、幼いころ食べた日の丸の立った「お子さまランチ」やチキンライスの味を思い出し、じんとなった。「洋風カツ丼が名物だったんですよ」と山田さん。

屋上に出ると辻さんのほおが緩んだ。「観覧車や回転するロケット形の乗り物があって、いつも楽しみにしてましたね」。遊園地の痕跡はなく、さび付いたフェンスや倒れたビアガーデン用のテーブルが痛々しかった。

■足元に謎の石像

有明海、普賢岳、化学工場群…見晴らしは抜群だ。鉄ばしごを伝って塔屋に上ったところで、さび付いたミュージックサイレンを発見した。1958年から1日4回、「埴生(はにゅう)の宿」などの名曲が市内に流れていたという。「8キロ四方まで聞こえたそうです」と辻さん。

おや? 足元に小さな黒い石像がある。大黒様かえびす様か。表面が削れてよく分からない。文化財に詳しい山田さんも首をかしげる。空襲を経てきたのだろうか…。

崩れかけた建物には市民の夢や郷愁がたっぷり染み込んでいた。石像に「お疲れさまでした」と、そっと手を合わせ、夢の跡を後にした。

=2008/01/27付 西日本新聞朝刊=

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