あぁ~、ブログ用の写真を撮りたかっただけなのか?(爆)
ちなみにこれも相当無駄だと思いますが。
どうやら、無駄な部分は足元にあるようですねwさて、政界入りをWikiさんとこでみてみましょう。
政界入り[編集]
四日市市を地盤としていた竹下派議員・山本幸雄の後継者としての出馬を、竹下登が早大の1年後輩である父・岡田卓也を通じて打診、克也が「やってもいい」と意欲を見せたことで出馬に至った[1]。1988年7月、大臣官房総務課の企画調査官を最後に通産省を退官。自民党新人として1990年の第39回衆議院議員総選挙に出馬、当選した。
当初経世会に所属していたが、政治資金規正法や選挙制度の改正を巡って竹下登ら守旧派と対立し、離脱。羽田孜、後藤田正晴らと共に政治改革を訴え、若手国会議員の代表格として頭角を現していく。
一連の政争を重ねる中で「一国の総理大臣が、金集めがうまいかどうかで決まる」(本人談)という当時の自民党の派閥政治を目の当たりにし、愕然とする。 1993年、宮澤内閣改造内閣不信任案に賛成して自民党を集団離党、3年半の自民党生活に終止符を打った。
その後は羽田、小沢一郎に従って新生党結党に参加し、翌1994年新進党に合流。二大政党時代を目指すが、1996年の総選挙敗北後の党内抗争激化を受け、翌1997年に小沢が新進党解党を宣言する。有権者を裏切る行為だとして岡田は解党に強く反対するも、決定は覆らなかった。 以後、小沢とは民主党と自由党の合併まで袂を分かつこととなる。
若かったのか知れませんが、政界に入るきっかけを作った故竹下登氏の恩を仇で返しています。笑えるのがここ、「一国の総理大臣が、金集めがうまいかどうかで決まる」のに愕然としたそうですが、現在の民主党もまったく変わりませんよ。っていうか、故人献金やら政党助成金でマンション経営やらと、今の自由民主党でも厭きれるような金集め、資金運用をどのように見ているのでしょう。
パキスタンから補給活動支援継続を希望されたようですが、岡田克也外相は返事をしてないようですね。それも当然でしょ。民主党は以下のように、来年1月の期限が来たら撤退と公言しているんですから。
民主党 岡田克也 三重3区 選挙前.com
岡田克也語録(民主党元代表2004~2005)
政権交代―この国を変える
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