福岡市東公園には十三世紀後半の元寇の際、自ら伊勢神宮、熊野三山に詣でて国家の安泰を祈願された亀山上皇像(元寇記念碑/高さ四・八メートル)が鎮座しています。元軍が襲来した博多湾を見下ろすように高台に建てられたこの銅像が、実は明治初期に一人の人物の命懸けの努力によって完成したことを知る人は皆無に近いでしょう。
その人物は湯地丈雄(一八四七~一九一三)。福岡警察署長(現在で言えば県警本部長)の地位にありながら、その要職を擲ち、裸一貫、実に十二年間全国を講演行脚しながら亀山上皇象の建設に心血を注ぐのです。
私が湯地の名前を知ったのは福岡県警の巡査時代でした。警察OBでつくる福岡県警友会が刊行した「湯地署長-元寇記念碑の由来」を読み終えて、その不屈の精神と日本人としての気概に感動し、そういう傑人が警察官の先輩にいたことを誇りに思ったものでした。
研究に力を入れるようになったのは、北九州市警察部長を最後に警察官を退官してからです。湯地を長年研究してきた友人が病気となり、多くの資料を託されたのです。資料の中に中村久慈氏の著による「湯地丈雄」という本格的な伝記があり、これにいたく感銘を受けた私は、時代が混迷を極めるいまこそ日本人に広くこの偉人を知らしめなくては、との思いからこの本を同名で復刊するに至りました。
私をそれほどまでに熱くさせた湯地丈雄とはどういう人物だったのか。その人生を振り返ってみたいと思います。
湯地の人生を変える出来事となったのは明治期半ばの一八八六年に発生した長崎事件です。清国の軍艦が予告なく長崎に入港した上、勝手に上陸した約五百名の水平の一部が暴行や強奪を働き、事件を鎮圧しようとした警察官が殉職、多数の市民が犠牲になった痛ましい事件です。
乱闘の惨状が残る長崎市街を視察した時、湯地は彼らの傍若無人なる振る舞いに怒りが込み上げ、国防の大切さを痛感すると同時に、六百年前の蒙古襲来の惨禍が頭を過りました。
元寇によって多くの日本の将兵が犠牲になり、妻子は惨殺され住処が焼かれました。しかし、明治のその頃、人々は清という大国の脅威を恐れるばかりで、鎌倉時代に国を挙げて日本を守ったという大切な教訓がすっかり薄れていたのです。「いますぐに奮い立って日本国民を啓発し、国防精神を高めなかったら、かの元寇の惨禍よりもなお一層恐るべき外患を受けて、悔いを万世に残すようなことになりかねない」
元寇で最も大きな惨禍を被った博多湾の海辺に立つと、なおその思いを強くするのでした。そして、この地に元寇の惨禍を忘れず、忠勇義烈な国民の行動を顕彰するための一大記念碑を建設しようと自らに誓います。
一八九〇年、警察署長を退職、裸一貫の素浪人となった湯地は元寇や長崎事件に見られる清国の実態や記念碑建設の思いを一文にしたため、全国の心ある人たちに送付した後、全国遊説の旅へと出発。この時、湯地の志に共鳴した和子夫人は小言一つ言わず、ささやかな祝宴を開き喜んで送り出すのです。
湯地の目的は単に元寇記念碑を建てることではありません。なぜ記念碑が必要かという趣旨を遊説をとおして国民に訴え、国防意識を高めることにありました。一人の支援者が多額の寄付をするよりも、僅かなお金であっても幅広い層から寄付を募り、名実ともに挙国一致の象徴として完成させようとします。
湯地は馬車で全国を回りながら、学校や兵舎、公民館などに集まった人々に渾身の講演を行いました。話だけでは実感が乏しいと考えた湯地は、元寇の有りさまを映し出す幻灯機や支援者・矢田一嘯画伯の油絵を携行し、「世に学者や識者は多いのに、数百年間、一人として元寇のことを説かないのは心外の至りである」と強く訴えたのです。
寄付金はすべて建設費に充てるため、生活はとことん切り詰めました。宿泊には学校や公民館を利用し、北海道で屯田兵を相手に講演した時は道なき道を歩き、金銭を持たない兵たちが小豆や大豆を持ち寄って寄付したという逸話も残されています。
全国行脚の記録を見ると、一八九一年から一九〇二年までの十二年間に、足跡を残さない土地はないほどに全国をくまなく巡回し、驚いたことに聴講者の総計は実に百二十六万人に及びます。こうした血の滲むような努力の末に碑が完成したのは一九〇四年十二月。長崎事件から十八年の歳月が過ぎていました。
湯地の功績はそれだけに止まりません。廃藩置県から日が浅いその頃、国といえば藩というイメージしかなかった国民の意識を一変させ、さらに講演行脚中に勃発した日清戦争、その後の日露戦争に対処する上での国防意識の醸成にどれだけ大きく貢献したか、計り知れないものがあります。事実、日本海海戦を指揮した連合艦隊司令長官・東郷平八郎なども日露戦争後、記念碑に詣でているほどです。
しかし、湯地にはこれらの功績を誇示しようという思いはいささかもありませんでした。その証拠に碑のどこにも湯地の名は刻まれていません。己を捨て大義に生きた湯地と、彼の留守中、貧しさに耐え内職をしながら家庭を守った和子夫人の内助の功を偲ばずにはいられません。
湯地の人生を思う時、私の脳裏に過ぎるのは「気概」の二字です。一事を貫徹した湯地の生き方は現代人が忘れかけた気概の大切さを教えてくれています。
(みうら・なおじ=九州国際大学客員教授)
湯地丈雄―元寇紀念碑 亀山上皇像を建てた男
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